Re: 善意と他者
ども。どうでしょうね、私は「そんな芸当のできる両国でなし」と言っていないあたりからも贈与経済的に読んだのですが、交換経済を考えている可能性もありますね。(http://alicia.zive.net/MT/mt-comments.cgi?entry_id=181)
まあ、本人は区別してない(しかも、両方に足を乗っけてる)気もします。独白と議論、贈与と交換、共同体と社会、善意 (favor/kindness) と善意 (bona fides) 等の峻別は、ある種の人にとっては難しい(直観でも理屈でも)ことを実感します。
で、何でこんなことを書いたかというと、そういう峻別をしない人に対して、どういう批判が(議論相手と、議論を見る第三者に対して)有効かなあ、と考えているのです。
今回の記事(や先日の議論)に対して「favor を前提にした贈与経済だ」と批判すると、「いや、実は bona fides を前提にした交換経済なんだ」という再反論が可能だし、本人が峻別していない(両者に足を乗っけてる)以上、その再反論がそれなりに有効に見える余地があります。同様に、「ナイーブな正義だ(贈与ベースだ)」という批判に対しても、「別にナイーブじゃない(交換ベースだ)」という再反論が可能だと思います。
本当は、後者(議論、交換、社会、bona fides)は、両者の峻別から始まるので、「両者に足を乗っける」のは困難な筈ですが、実際の議論では、この現象がよく見られます。そして、議論を判断する第三者にも、彼等の再反論は、それなりに有効に見えるようです。(その理由の一部は、後述のように、言説の場が十分に機能してないからかもしれませんが、それはとにかく)
たとえば、「犠牲者を救うのが正義である」という主張に対し、コスト論(や、コストに関する立証責任論)で反論するのは、以下のように、かえって議論が成立しているという外見を与えるように思います。
- 「犠牲者を救うのが正義である」という主張に対して、「本当に犠牲者か・本当に正義か」と反論すると、「誰が犠牲者か・何が正義か、議論してみればよい」→「それは議論のコストを無視している」→「議論のコストは、実際に議論しなくては、わからない」という流れが可能であり、実際にありました。(たとえば http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050216#p1)
- そして、現実にコストは事前に不明である以上(更にベネフィットの議論もすっ飛ばしてる以上)、外見的には議論が成立しているように見えます。実際、経験的には、コストとベネフィットの詳細が不明な場合、「では小規模の予算で試行してみよう」という結論が結構通ります。つまり、この種の議論の場合、コスト論は傍論としてはとにかく、最終的な判断の根拠としては使いにくいです。
- 立証責任論に基づく批判も、同様に、かえって議論の外見を与えると思います。
彼等の主張を批判する理由は、コスト等の「実質的な」点よりも、最終的には、彼等が本来の意味での議論を拒否している(つまり、贈与と交換の峻別をできていない)という「形式的な」点にあると理解していますが(例:法廷でない、つまり議論の場でない場を、法廷と主張している)、その点を説得的に主張するためには、どうすればよいのかなあ、というのが問題意識です。
直接に「峻別ができていない」という批判が可能であればよいのですが(結局、それが可能であることが、本来の意味での政治や法律や契約や交渉や議論の成立の条件だと思うのですが(*1))、上で書いたように、難しいようです。それは現時点での、自分の周囲の言説の場の(自分を含めての)限界なのかな、とも思います。またこれは、前述の説得力不足の理由の一つのかもしれません。
要するに「その主張は本来の意味での議論を拒否している」ことを説得的に主張する必要があるので(議論をしている外見を形成してしまっては逆効果なので)、代替案としては、以下のように、たとえば「前提条件自体を批判する」程度しか思いつきません。
- 正義はよいものだという前提を批判する。正義は常に副作用の危険を伴い、胡散臭く、厄介なものであることを説明する。
- 議論を進めるにあたり、合意を前提としている点を批判する。合意しない相手と議論することは可能だし、合意できない相手であっても続けるものを本来は議論と呼ぶに値することを説明する。(たとえば「実際に(中略)どのような合意ができるのか、作って見ればいい」や「説得し、説得に応じないなら戦うしかないんじゃないか」といった発言を批判する。)
以前に http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/comment?date=20050208#c の最後のコメントを書いた理由は、そういう問題意識なのですが、相手方にも第三者にも上手に届かなかったようです。
いや、結局は戦術というか戦略なのですが。付け焼刃の保守反動にならずに、ああいう主張を批判するのは難しいな、と思う次第です。試行錯誤しかないんだとは思いますが、よい知恵があれば。
(*1) 日常において、これらの峻別をしない人は結構多いと思います。それは普通ですし、言説(政治や法律や契約や交渉や議論)の場に参加しない限りは構わないのですが、言説の場に参加する以上は(というか言説の場を可能にするためには)、峻別は前提条件となるように思います
(おおや先生以外の、詳しくない人のための説明:たとえば、本来の意味での政治は、単なる権力関係ではありません。むしろある意味では、単なる権力関係に陥ることを回避するための人々の営みと言えます(木庭顕「政治の成立」東大出版会)。同様に、本来の意味での法律は、単なる権力の定める規範ではありません。議論、交渉、契約等も同様です。政治や法律に権力の匂いを感じるのは普通ですが(それらと格闘する方法論が政治や法律なのだから当然ですが)、だからといって、政治や法律に直接に権力を感じ、その感覚を言説の場に持ち込むのは間違いだし、困るわけです。)

Comments
繊細で込み入った議論につき良く分からないことがあるのでひとつ質問させていただきます。
こちらでのお話から
「犠牲者を救うのが正義である」は信念である。すなわち価値判断の表明である。
それを他者と share したいという気持ちは分かるが
だからといって天下り的に universal に適用しようとするのはお門違い。
それは「良いと思うものは正しい」と主張しているようなもので
本来の議論を拒否しているとは言えないか。
また「良いと思うものは share される【べき】だ」との主張も似たようなものではないか。
と言うことは「あり」なのでしょうか。
Posted by: 小僧 | Apr 16, 2005 at 06:02 PM
「あり」と主張する人もいると思いますが、その主張も批判されると思います。小僧さんはどう思いますか。
Posted by: t.ikawa | Apr 16, 2005 at 06:21 PM
どう思いますかと言われても良く分かりません
としか言えないのですが、とりあえず答えてはみます。
素朴な信念を現実に適用する際にはどうしても
「おまけ」がついてしまう。
上の信念については共感 (share) するが、
私は美しき文學青年ではないので
素朴な「信念」が「おまけ」よりもいつでも優先すると
言い切る自信がない。
よって「おまけ」について考えてから決めたいと思う。
すなわち
理念を現実に適用する場合
'b. それが何であるかを理解する' 無しで
'c. それの価値を判断する' を行うのはあまりしたくない。
とでも言いかえられましょうか。
Posted by: 小僧 | Apr 17, 2005 at 04:39 AM